2006年10月05日

よいこくご。

国語の先生になろうと思ったら、

*っ***ん(日本近代文学)で卒業論文を書いたほうがいいよ

そのほうが

現代文の授業が出来るということで

採用されやすいから


ということを

過去に言われたことがあります。



日本近代文学の論文を書くための手法は

現代文の文章を読むために生かされているのだろうか?





高等学校で

ハイレベルの国語の授業をなさる先生を

わたしは一人だけ存じ上げている。

その先生は

ことばの可能性に気づかせることができ、

そのことばに対するきづきを

クラス単位で共有させることが出来る。

その先生の作り出す時間空間は

それは体感してみなければわからないだろうが

国語教育の意味を感じさせるものだ。


その方は

アウトプットを徹底的にさせる。

書く形でも、発言でも。

もちろん強制はしない。

でもポロリと出た発言、

それがどんなに稚拙なものに見えようとも、

稚拙なものとしない

受け方をなさる。

そしてその子の

発言の意味

発言の真意に

気づかせることが出来る。


そして

そのきづきが広がって

「通る」

授業を作り上げることが出来る。

そこまで出来るというのは

もはや奇蹟扱いされてしまうので

その先生が教育系の学会で話されるときには

結構大変なことになる。


そこまでの


気づかせるテクニックをお持ちのその先生は

テストをしない。





ライブが全てだから。

そこで得たものは


初見の文章や

新たに出会った問題に

対する子供の意識のなかで

あらわれるものだから。



そこまでの授業を見たことがあるから

わたしは国語の授業の可能性を信じたいと思う。



それは日常では

決して得られないものだから。


その意味では

よい国語の授業も

駄目な国語の授業も

非日常であると言う意味では

共通するのだろう。

ただ、中身はあまりにも違う。


posted by 華岡依音 at 22:02| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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Excerpt: オタクのドウテイキャラのフリして入ったら、やりまくりのもうけまくり(笑)
Weblog: 林田
Tracked: 2007-06-04 06:36
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