2006年12月01日

よみ、かき、きき、そろそろ、ばーん。

読み書きそろばん、の能力を

高めることをすすめるのは


はじめてみたもの

なんだこりゃ!とおもったものを

自分のわかる言葉に置き換えて

納得する力を

つけるもとになる思考の道筋を

作るため

だと思う。


だから

音読を繰り返して

暗誦する価値のある

ものだけを反復し、

あとは

初見の音読の

精度を上げていくことに

音読の意義がある

と思う。


だから響きのもととなるものの

ストックが必要であるし


そのストックを作るためには

よい響きの言葉を

歌を覚えるように

聞く必要があるだろう。




でもその聞きは

「読み聞かせられ」であると

聞く意味が減ると思う。

「聞きたがるものを聞かせる」のではなく

「聞かせたほうがよいだろうから聞かせる」のは

「聞かせる」側のエゴになることがある。

「聞かせよう」が下手であれば、

何であれ人の耳には入らない。


だから

「聞き」たい心を誘うような

よい響きの読みの能力を

鍛えておいて

どんな文章でも胸を突き抜けるような

読みを聞かせればいい。

そうすれば


もっともっとと

何度でもせがむ。

飽きるまでせがむ。


そうなったら

飽きるまで繰り返す。



飽きるころには、

読むことを好むようになる。

聞かせようとするようになる。

そうなったら、

聞けばいい。



計算も、

計算を早くすることに

意義を感じるのではなく、

数の作り出す美しさ

規則性を

楽しめるような問題を

選んで与えていけばよい。

その面白みを教えるのは

ことば

母国語である

母国語のもつあいまいさを

数字の持つ明快さに

あわせて

説明する言葉を選ぶ


数字であっても

数字を使ってお話をするだけだから

数字も記号も

合言葉だから





実際のものを使って考えていく

お話し上手な式の立て方を

正確に

聞かせ続ける

書かせ続ける




同じ問題を何度も解かせるのは

暗誦できるステキな言葉の数を

増やすことに似ている



だから


はじめはそろそろとしかできずとも

解き方を

聞かせすぎてはいけない


それは

聞きの能力に


危機をもたらし

きづきではなく

きずを与える。




ほんとうにばんばん解けるのは

ほんとうに

入試本番を暁とすれば

ばんもばん

深更のころ


それまでは

あせもかく

はじもかく



ひとつひとつの過程を

家庭の中で

子供の手で

家族の手で

書き記しつつ

ゆるやかに

すすむ

そのリアルが

こどもが

試験会場で

はじめてであうものに

立ち向かう力を

与えてくれる。
posted by 華岡依音 at 20:12| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月22日

頭のいい、相談相手。

この時期になると、

どうしようもなく、

近いところに、

不安を

もらしてしまうものだ。

こどもであれば、イライラをダダもれにしてしまうだろうし、

おとなであっても、ダダもれにしたいこともあるだろうし、

控えめに相手を思いやりながらほんの少しだけもらすこともあるだろう。


受け手が

その気持ちを先取りしてしまって

話し手の本質を突いてしまうと

話し手はたやすく受け手の土俵に飛び込んでは来るのだけれど

話し手をおぼれさせてしまうことになる。

つまり

自分の持ち場を離れさせることになる。

でも持ち場を離れてはいけないことは

話し手自身も承知の上なのだけれど、

苦しみをあまりにも

いきなり共感してしまうと

避難所だという勘違い(現実にはそれは逃避であるので)

を与えてしまうことになる。

もちろん最終局面で

まずはその場から引き離す必要があるほどの修羅場である場合は別として、

  その修羅場に至らせないようにすることが

  まずは自分の仕事であるので、

まずは自分の今の現状をさらりと示し、

相手の現状を理解しているということを

軽いウィットで返す。

そして相手を微笑ませ、

少し心をゆるませて現実に向かわせる。

この匙加減が本当に難しい。


でも

そうした相談相手が

いるのといないのとでは、

この時期の潜り抜けられ方が

まるで

違うように思う。
posted by 華岡依音 at 14:03| Comment(0) | TrackBack(3) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月07日

風邪の波がやってきました。

私の教え子の周りにも、風邪引きさんが多いようです。

そして、教え子自身も風邪をひくことがあります。

そういうときは前もって連絡してくれれば

お思いになる以上に振り替えられるものです。

交換可能な授業というものは

前日までの連絡の場合なら

何とかなることが多いと思います。

ただし共存共栄なので

交換してくださる方とうまく調整する必要がありますが。


集団授業の場合は

講義形式ですから

本来は抜けてしまっては困るものです。

でも病気を撒き散らしながら

全く集中することなく

その時間を過ごすことは

その時間を何が何でも治す気で

床についていることに比べ

価値ある時間の過ごし方かな?と思います。

その結果

先生が病気になるという事態が起こると

みんなでお金を出している共有財産である先生から

得られる価値を減らすことになるというなかなか辛い状況を

引きこすことにもなるのです。



だからもっと言ってしまうと、

その共有財産から一番高い価値を引き出すために

授業は健康な状態で受けましょう、

そのためには健康管理が大切ですよ、

ということです。



おうちで着る服、お布団回りを

冬の態勢に近づけていますか?

この時期の部屋着って本当に難しいと思うのです。

上に羽織るのはベストの形になっているものがよいと思います。


髪の毛をきっちり乾かすこと。

足の指の股まで拭くこと。

お風呂上りに首という首を冷やさないようにすること。

足首、手首、そして首すじ。


そして風邪をひいたぞ、まずいぞ、というときには、

刺激物を除いたあたたかい食べもの。

味を感じにくいからといって味を濃くしないように。

そして

ぬるっちい水分。

冷やしていないスポーツドリンクをお勧めします。

そしてビタミンCと糖分の摂取。

ビタミンタブレットを一気に投入し、

首の周りにタオルを巻き、

靴下を履いて、

むりむり発汗させます。

もちろん水分補給と着替えは忘れずに。

そして眠れなくても、

緩やかに横になっていること。

視神経を刺激しないように

だらだらだるだるしています。

ただし手を指圧しています。

痛いなあって思うところを丹念に押しています。

するとトイレに行きたくなるので

トイレに行って、水分をとって、まただるだる。


そして死ぬ気で一日で治す。

8時間一本勝負で、

治します。
posted by 華岡依音 at 16:11| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月02日

白と黒で、どこまで色を出すか?

受験生に対しては、

色を使うことを

避けている。

実は

ほおっておいても

色を使わなくなってくる子の方が

賢い。


当然のことながら

試験会場で使えるのは

黒。

黒いもので白いものに

いかに鮮やかに

自分の理解を

出題者の意図を

整理して

示すのか。

その技術も

鍛錬するには時間が要る。


試験会場の中で

使うことの出来ないものは

そぎ落としてそぎ落として

そぎ落としていく時期だから。



それは

説明する側の

説明能力を示す

指標にもなる。
posted by 華岡依音 at 19:15| Comment(3) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

選択肢を提示する。(承前)

すべてのひとが、その「場」の享受のしかたを

最初から知っているわけではない。

だれでもはじめは初心者。

その「場」の管理をするひとは、

どんなに初心者の質問であっても、

その質問に最大限の答えの選択肢を与えることが出来る。

初心者だから、答えは一つであればいい。

それは答えを与える側の傲慢だ。

初心者だからこそ、迷いなく、

答えを求めることが出来る。

答えを一つだけほしがるのは、

答えの選択肢があまりに多くなりすぎて、

自分でどうしていいのかもてあましている人間だ。

そしてその一つの答えを決めることを

相手にゆだねることが出来るほど弱っている人間だ。

でもそれは弱っているがためで、

弱っている状態から少しでも復活すると、

あのとき選択権を相手にゆだねなければよかったと

思うものなのだ。

そんなにも、

どんなひとでも、

自分の人生の選択権を捨てたくないものなのだ。

当然のことなのだ。

その結果が降りかかってくるのは、自分自身なのだから。


「場」を守り続けてきた管理者は、

初心者が投げかけてきた質問に対する

最も適正な選択肢を

いくつか、

提示することで

管理者の思う一番よい選択肢を

選ばせていくことが出来る。


そしてその初心者が

その分野での知識を深めていきたくなったときに

その「場」の管理者の

選択肢の選び取り方の方法を

盗んでまねていくことで、

詳しくその分野への知識を広げていけるようになるのだ。


ましてや、

初心者のふりをしている

ひとを相手にする可能性がある場合は

選択肢の提示をしないと

かえって足もとを見られることになってしまう。


質問への対応の

奥の深さを感じる、バーでの一こまでした
posted by 華岡依音 at 15:34| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アメニティのある「場」(承前)

その「場」には、

あってほしいものが、あってほしい場所にある。

なくてもいいものは、そこにはない。


その「場」を享受してきたひとが

つみかさねてきたものが、

さりげなく配置してある。

そして、暗くなく、明るすぎることもなく、

集中できる静けさがある。

そうした「場」から、


自分の中にこうしたものがあったのか、という

気づきを得る瞬間。


自分の中に、こうしたものを理解する道があったのか、と

知るよろこび。


そうしたものを与えることが出来るのは、

幅広い世代の人の中で、

まいにちまいにちを

たんたんと

たんたんと

笑顔で

すごすことの出来るひと。


そうしたひとの集合体で

学びの「場」を

つくりだすことができれば






その「場」を知らないで

知識だけを飲み込んできた人には得られないものを

つくりだすことができるだろうと、




ひとりひとりのスタッフの顔を見ながら思うのでした。




つづきます。
posted by 華岡依音 at 13:16| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月01日

ホテルという場に見る、学びと気づき。(承前)

時間と空間を共有し、

醸し出される雰囲気。

そしてその雰囲気を

瞬時に作り上げることが出来る。


それが

「場」を作るひとなのだと、

24時間を過ごして思うのだった。

現実はドラマよりも小説よりも

リアルに自分に響いてくる。

突き刺さってくる。


「場」が満たされて貪欲になることなく、

「場」の中でその「場」を享受することの出来るひと。


そんなひとが、

本気で「場」を作り続け、そして

その「場」に来るひとに教えているのだ。


その「場」を享受し、そこから気付きなさいと。

自分の時間と空間の使い方を、ふるまいを、と。


緩やかに、本気で。



そしてその「場」にいるひとは、

その「場」における学びを

強要しない。


この空間を選んだのでしょう、と。

この時間を選んだのでしょう、と。

そして、お金を使って、この「場」にいるのでしょう、と。


それに気づいた人だけが

幸せなその「場」での学びを、気づきを得ることが出来る。


お金を使うだけ使って、時間と空間を共有するだけ共有して

共有ではなくかき乱すだけかき乱す。

そして自分の思いを激しく主張することで、

自分の思いが正しいものであると示そうとする。



そんな「場」は、そこにはない。




つづきます。
posted by 華岡依音 at 19:45| Comment(0) | TrackBack(2) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

教えるということは、究極のサービスだから。

教えるということは、

教えるテキストという材料があるが、

目に見えないものを目に見える形にして

相手の中にまた目に見えない形にして

定着させていく。


そして、その場所には何も残らない、ように見える。



でも、

時間と空間の共有を

繰り返していった結果、

その「場」に醸し出されるもの。




その「雰囲気」は

作り出していく人の力による。




それを作り出す人間たちの、

チームワーク。


それぞれが、

自分に生み出せる最大限の価値を、

笑顔とともに、

生み出していく。

ベストに限りなく近づく、ベターの追求。



その「場」に触れ、呼吸し、自分を解放する。

そういう「場」で子供の学びを生み出すことが出来たら、



と、

じわりと感じる小さなたびでした



つづきます。
posted by 華岡依音 at 10:03| Comment(0) | TrackBack(3) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月25日

低空飛行であっても。

全ての教科を嫌いにさせない。

少なくとも、点数が低いものが嫌いなものと思わせない。

点数が高いものは、自分は理解できる、わかっている、

得意なのだ。

そう思わせるのはたやすい。


やりこめば

短期記憶で

何とかなる。

結構何とかなる。

そして

それだけ。



自分の好きではないものを

嫌いにさせない。


難しくても、

嫌いにはさせない。

投げ出させない。


出来るだけ長い間、

掴ませておく。

掴んでいる間に、

どう掴めばもっと上手に掴めるか、

気付くことがある。



でもどんなに強く握らせておいても、

自分が得意だと思ったものは

結構簡単に手を放してしまう。

いやそれは強く握っていたから、

手がくいこんだだけで、

上手に掴んでいるわけではないんだよ。

そういっても、

だっていい点が取れたから

分かっているということでしょう?


いやそこで手を離したら

キミの進む道に

キミの手の跡がついた知識が

ポロリポロリと

道標のように残されている。


それを追いかけて

何かがついてくるかもしれないし

そのまま腐ってしまうかもしれないよ。


一度掴んだものを

出来るだけ放さないで

淡々と

持ち続けていると

肉になるし

骨にも

血にもなるだろう。


その

キモチを折らないこと。



掴む手を広げないで

握力を徐々に強くして。


エリート校で

低空飛行を続けているようでも

手を放さないでいるそのつよさが


キミが本当にやりたいと思っていることだけを

するようになったときに

付随してくるものを

きちんと掴み続けることが出来ると、

思っている。



低空飛行であることを恥じる必要はない。

飛び続けることが大切だ。


いつか、雲は切れる。
posted by 華岡依音 at 12:34| Comment(2) | TrackBack(2) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月19日

かんげん。

換言して、還元して。

目の前にある問題を、如何に自分の中にあるものと結びつけ、

取り込んで、落ち着かせて、次に出会うものへの取っ掛かりとしていくか。

自分の中にあるものと結びつけるのが、こんなにも難しい。



自分ではない誰かに、

目に見えないものを目に見える形で、しかもことばに出来る形で、

落ち着かせていくという仕事。


教えて、繰り返させて、わからせて、

わかることをうれしく、そしてもっとわかりたいと思わせて、

好きにさせる。

好きなものをもっと好きにさせること。

それはもっといいものがあるよ、

とその奥の深さをちらちらと見せて、

そのよさにはまり込ませていくことだ。

嫌いなものをそこまでに持っていくには、

好きなものを知ろうとするときにくらべて

ほんとうにはかりしれないほどの

指導する人間のかんげんの力が必要なのだと思う。


つまるところ、

指導する人間が指導内容を

どこまでかんげんしていけるかで

相手の理解度が決まる。

ほんとうにことばの国の人でなければ

指導というものは難しい。

直接的な説明で

新しい概念を相手の中に入れるのは殆ど無理だ。

ましてや、苦手だと思っているものを。


苦手だと思っているものを好きにする。

たくさんのたくさんの段階を踏んで、

ことばの限りを尽くして、

ちょっとした動作、

ちょっとして工夫を

惜しむことなく

積み重ねて。


その繰り返しの日々の中で、

思いもよらない一言が、

時間がたって

ゆっくりと化合して

塩となって沈むように

子供の心のなかに

理解の結晶として存在することに気づかされる。

そしてその時

子供は

酸素のように生き生きとした

呼吸をするのだ。

その呼吸は本当に深く、

教える私の心に

うつくしく入ってくる。


そんなとき、よけいな甘言も諫言も意味がないことに

いつも、気付かされる。
posted by 華岡依音 at 20:00| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月15日

試験前夜の、家庭学習。

ひとは、それまでの生の中で得た

行動原理と、文法と、語彙の体系と、

意思疎通の能力でもって、

新しい状況を自分の中に飲み込んでいく。


教える側よりも教わる側のほうが

そうした意味での経験値が少ない。

少ない側の、持てる能力をまず全開にすること。

それが教える側の理想だ。


しかし、持てる能力を全開にしていない状態でも

「学び」を必要とされるときはある。

のりのりでないときの、勉強。

試験前の、苦手分野の復習などはまさにそれに当たるだろう。


学ばなければ、クリアできない。

でもクリアするために何が必要なのか。

その必要なものは、全く見えていないだろう。

乗っていない子供には。

気力、なし。投げ出したくてたまらない。

体力、なし。キモチも脳も疲弊している。


この状況を打開するには、

指導者が最短距離で指導内容を腑に落とす。

ただし、その子供にとっての

最短コースで。


そのためには、

指導者が

その子にとってなにを最短距離とするか

見抜くことが必要だ。

耳を澄ます。

体中の毛穴を開いて、

子供の目線と全ての動きを見守る。

自分の解く道筋を全て言語化した状態で。


自分自身が問題のどこを見て、

どう自分の中で問題点を再構成して

どう解きほぐすのか

そのスケルトンのモデルを完成させておきながら、

そのモデルを押し付けるのではなく、

子供の脳の中につくられつつあるモデルを透かし見て、

そのモデルの中に足りないものを

子供の脳の中

もしくは問題文の中

そのどこからさがしてきて組み込むか。

その両方にないものを

どんなに反復して頭に入れようとしても

入らないのだ。

入れる気がない状態の時には。




何度云ったって、そんなときには入らない。

どんな説明を外部から入れようとしても、

入らない。


そんなときには、抉り出す。

その子の生を、ともに生きてきた時間の中で

指導者はなにを入れたのか。

指導者はその子の生の中から、どんな情報を

共有しているのか。

その、二人の生、

ともに過ごした時間の密度が試される。

抉り出すことばの反復。

子供の持てることばの海から、

その子の理解の糸に、

問題文の糸をかける。

そしてその子の理解を抉り出せた瞬間に、

子供は声を漏らすのだ。

そしてその理解をはっきりと自覚できるよう、

繰り返し繰り返し糸をかけ回路を作っていく。


そのなかで、

子供の気力は体力を補って、

ぐいぐいとわかろうとし始める。


そうなると、

問題の中から

自分の中にある解答を

引きずり出そうという目線を

いちずに見せるようになる。

そして鉛筆の先に

自分の織り出そうとする解答を見ながら

書き始めるのだ。


そうなると声が張る。

目がきらきらする。


その時間を一回の指導の中で

何分持たせることが出来るのか。



そのために、わたしは働いている。
posted by 華岡依音 at 22:02| Comment(3) | TrackBack(2) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月13日

同時並行。

どんなときでも、

どんなことがおこっても、

時間はたつし、

目指すものはやってくるし、

逃げたいものも、やってくる。


生まれた瞬間から、

その人生の終わりに向かっていくわけだから、

どんなに

あー、時間をとめたい!!



叫んでみても

その時間の流れを引き戻せるわけじゃない。

その時間の流れの中で

避けられないものだってたくさんある。

受験を抱えながら、

介護を抱えることもある。

修羅を抱えながら

その修羅を飼いならしつつ

子供を教える人もいる。

平穏無事な状態で

仕事が出来る。

勉強が出来る。

そうした状態のほうが珍しいような気がする。

だから

同時並行でいろいろなことをすすめるのだ。




勉強以外のさまざまな思い。

それを心の中で飼いならしつつ

受験会場へ子供は行く。


そういう子供をたくさん見てきた。


その心を飼いならす。

その心を捨てさせるのでも

その心を閉じさせるのでも

なく。



その心を飼いならせないのなら

本能的に

そちらへのアンテナは働かなくなるものだ。


きちんと心を見つめていれば。

その心が逃避傾向へと

走るものでなければ。

人間の本能は

いくつであっても

そんなに侮ってよいものではない。
posted by 華岡依音 at 19:22| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月11日

コンパスさんと擬人法。

コンパスを使いこなせない子供に、

目で見せても使い方をつかませるのは難しいと思います。



そんなわけで。



コンパスさんは足がながーい、スケーターです。

針のところを中心にしてくるくるって回るんだけれど、

上半身を、


こんな風に、(と言いながら持たせる)


回るほうを前だと考えて、

ちょっと前に倒れこむ感じでくるくるって回るのね。

反り返って回ったり、

針じゃないほうに力をかけて回っちゃうと、

こけちゃうから、(こけさせる、2パターンで)

足ではなくて、

上半身を持って、

ちょっと前のめりな感じで、

そう、くるくるって、ね。

ほら、転ばないで綺麗に一回転できた。


おーーーー。

きれーきれー。

よし、足の幅をどんどん縮めるよ。

その時には足の長さに気をつけて。

針の長さと、芯の長さをよく見てね。

ターンしやすい長さをよく考えてみよう。


よーしよーし。

きれいになってきたー。




こんな感じで擬人法を使ってみたりします。


ちなみにこれは

擬人法の具体例としてあげた説明です。
posted by 華岡依音 at 19:46| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

右脳タイプの子。

右脳の働きが鋭いな、という子供は、

したいこととしなければならないことを

同時並行で進めることが出来ます。



ただし何かをしなければならない状態であることを

理解している状態のときですが。


そういう子は、なにをしているときでも

しなければならないことをする段階で

ひゃっと頭を切り替えることが出来ます。

例えば、ゲームや読書を

本当にす、とやめて勉強に頭を切り替えられる。

そういう子は

テスト直前の友達同士での問題のだしっこが

非常に有効です。


そして

そういう子は

授業をまじめに受けることが

当然だと思っています。

そして、授業の中でよく理解してよく覚えてきています。

だから復習の時間が

左脳タイプの子の数分の1ですみます。


「○○の時間」で

さっと頭を切り替えられる子は

右脳が強い子です。

何度もいって従うのではなく、

一言で、です。
posted by 華岡依音 at 16:14| Comment(0) | TrackBack(3) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

結構難しかったです。

仲良しの塾長先生から回ってきましたので。謹んで。


1)今、片思いをしていますか?

肩の重さをとるのは趣味にして特技ではありますが、
どんな「両思い」であっても相手の気持ちになりかわることは出来ないので、「片思い」の状態を双方向で交信できる状態になっているのは事実です。つまりはどんなに「両思い」であろうが「片思い」は続くと思います。

いわゆる「両思い」の時ほど、それを感じます。


2)あなたが恋をする年齢制限はいくつからいくつまで?
  

生まれてから死ぬまで。ただし理性が働くときに限る。


ママ(あれ?No.3がないけど、、、、、)


4)あなたが相手に贈る、告白の言葉を教えて下さい。
  
私がずっと落としていたと思っていた辞書はあなたがお持ちだったのですね。あれ?あれ?私がさがしていたものをなぜあなたは全てお持ちなのですか・・・・・・
  
5)どういう言葉で告白されたいですか?

はい、これをさがしていたのでしょう?

6)相手に恋人が居ます。諦められますか?
  
その恋人の存在込みでその人が存在しているはずだから、
その人まで受け容れられないに違いないと思うので、あきらめるも何も。

7)片思いをしている人ではない人物と結ばれ、
 あなたに恋人ができました。
 しかし叶わぬ恋とわかっていてもあなたはまだ片思いの事が
 忘れられません。今の恋人にそのこと言えますか?

過去は自分をつくるものでありましょうが、新しい人間関係をスタートさせている以上、いろんな人を無駄に巻き込みたくないので、この状態はないと思われます。  

8)飲み屋で片思いの人が一人で飲んでいます。
 話しかけますか?
  
そういう状態になることがあれば、話しかけるでしょうが・・・・・・・


9)偶然にも電車で同じ車両に乗りました。どうしましょう?
  
自分がいい状態で、相手も元気そうなら、ちょっと声をかけてみる。


10)片思いの人はあなたが思ってもいなかった趣味をお持ちでした。
  気持ちは変わりますか?
  
その趣味を学ぶ。

11)片思いの人に「誰か紹介して」と言われたあなたは誰かを紹介しますか?
  
その瞬間に、いろんなものが終わる。

12)行きつけの店に、客であなたと片思いの人しかいなかった。どうしますか?
  
お店の人を巻き込んで、ばりばりと話すでしょう。そしてお店の人とのやり取りから、その人を観察します。


13)恋が叶うのならば、相手の色になれますか?
  
染まってしまうと危険・・・たぶん・・・でも染まりやすいからこその自戒。  

14)片思いしている人とは別の人とあなたは恋人同士になりました。
 それを知った片思いしてる人はあなたに「ずっと好きだった」と告白をしてきました。
 新しい恋人が居るあなたはなんて答えますか?

そのかたはそのことばをいえないと思う。多分新しい関係が成立している段階で違う人になっているから。 


15)あなたはマイミクの中の誰かに片思いをしていますか?
  
マイミクはリアルに存じ上げている人ばかりだからなあ・・・
でもリアルに存じ上げてない方を好きになることはないですね。

16)今日は片思いの人の誕生日です。
  
その方とその方のご家族が仲良く過ごせるといいなあ。

17)片思いの人に遊ぼうって誘われました。
  
大変に時間の縛りがきついのですが・・・いいですか?

18)片思いの人に「好きな人居る?」って聞かれたあなたはなんて答えますか?
  
目で訴える。
声は出ない。
 
19)片思いの人が飲みすぎて立てません、帰れません。

そういう人とは多分飲まない。介抱はする。酒を抜くツボを押す。

20)片思いの人と実は両思いでした。その時のあなたの心境は?

がんばろう。

おー。やっぱり連ドラはこうでなくっちゃ♪
posted by 華岡依音 at 13:40| Comment(0) | TrackBack(3) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月07日

見えないものを見えるように。

国語が、できない。

国語の成績が低い子供は、

国語のできるこどもよりもスタートラインで遅れをとっている

ことになる。

とにかくそのスタートラインと思われているものの前に

立たせなければならないのだろうが、

現状、模擬試験で点数が出せない子供に

それまでの人生のあり方を振り返らせてもしょうがないので、

今の目の前の課題の中で、クリアできそうなものからクリアさせていく。



答えの書いてあるところを見つける力を一つでも身につけること。

自分の脳みその中にしか答えのないものを増やしていくこと。


そのために、時間を切って問題を解くようになった段階で

国語が苦手

である子供が

何も書き込まないで答えを出そうとしていることを

許してはならない。

目の前で書き込ませ、一人でも書き込ませる。


同じやり方で。

何に書き込みをすればいいかは、その子供の能力に応じて異なる。

問題の内容を書き込むことが必要な子供。

いつどこで誰が

に書き込みをすることが必要な子供。

主張の肯定否定に書き込みをすることが必要な子供。

文の中で書き込みをする前よりも

書き込みをした後のほうが

二度目以降に文をたどるための

「めじるし」にするためなのだから、

その子にとって簡単に見えないものになる。

だからその子供によって書き込む内容は違うけれど、

何も書かないですいすい答えを出していけるのであれば

国語が苦手だとは

口が裂けても言うことはあるまい。


とにかく、その子供のその段階にとってわからなかったものを

わかるようにすること。


そのための書き込みなのだから

わかるものの段階が変わっていけば


書き込みの内容も変わってくる。


一歩ずつ進めばいい。


全員が、合不合テストで

同じ問題を得点できなければならないわけじゃない。


過去問と全く違う出題の仕方の問題ではじきだされる

結果にいちいち傷つく暇はない。


でも過去問の出題傾向と同じ問題は

取れるに越したことはない。

そのために必要な書き込みのしかたを

よくよく問題をにらんで

その子に居わせて

考えてもらいたいと思う。
posted by 華岡依音 at 13:12| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月06日

新入社員は侵入社員でありたいね。

就職偏差値ということばが少しずつメジャーになっている。

うまいところに商機を見出したな、という感じ。

でもね。

本当にみんなが食い込みたい仕事は

偏差値が高くても入り込めないと思う。

偏差値が高いと言っても、

それはあくまでも模擬試験が出来るというだけで、

そのなかで働く人々のなかに

うまく入っていけるという保証でもなんでもない。

大学までであれば割りに似た年齢の人と一緒に行動するから

脳みそのつくりが似た人が似た場所に行くのかもしれない。

でも仕事と言う場は同じ脳みそのつくりの人だけで

構成されるはずもないし、

いかに能力の幅があるかということではないかと思う。

だからどんな人にも合わせていけること。

どんな人にも主張する切り口を見つけて切り込んでいけること。

商機を見出すこと。

そういう鋭さは、偏差値だけでははかりにくいと思う。

就職偏差値が悪いのではなく、

就職偏差値が高いから

仕事への適性があると思い込んでしまうことのほうが

危険なのだ。

あくまでもみんなが入り込みたいところに入り込んでいける人は

みんなよりも常に差をつけた状態で

入り込んでいるということ。

中にいる人間に

試験を受ける前の段階で

きちんと意識された状態で

試験を受けに行っているということ。

自分のすでに持っている業績を認めさせていたり

会社と利害関係を持つ人間と深くかかわっていたり

そういうものまでそろえているところで

スタートラインにはじめて立つということだ。

それが学校と仕事の違うところ。

コネだろうが侵入社員だろうが、

使い倒すのが基本中の基本。

就職準備を受験準備と同じように考えた瞬間、

就職偏差値というものへの信頼さえ崩れてしまうと思う。

その上で

就職偏差値をたたき出して

試験に自信を持って臨む、その材料にするのが最もうまい

利用法のように思われる。
posted by 華岡依音 at 09:25| Comment(1) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月05日

よいこくご。

国語の先生になろうと思ったら、

*っ***ん(日本近代文学)で卒業論文を書いたほうがいいよ

そのほうが

現代文の授業が出来るということで

採用されやすいから


ということを

過去に言われたことがあります。



日本近代文学の論文を書くための手法は

現代文の文章を読むために生かされているのだろうか?





高等学校で

ハイレベルの国語の授業をなさる先生を

わたしは一人だけ存じ上げている。

その先生は

ことばの可能性に気づかせることができ、

そのことばに対するきづきを

クラス単位で共有させることが出来る。

その先生の作り出す時間空間は

それは体感してみなければわからないだろうが

国語教育の意味を感じさせるものだ。


その方は

アウトプットを徹底的にさせる。

書く形でも、発言でも。

もちろん強制はしない。

でもポロリと出た発言、

それがどんなに稚拙なものに見えようとも、

稚拙なものとしない

受け方をなさる。

そしてその子の

発言の意味

発言の真意に

気づかせることが出来る。


そして

そのきづきが広がって

「通る」

授業を作り上げることが出来る。

そこまで出来るというのは

もはや奇蹟扱いされてしまうので

その先生が教育系の学会で話されるときには

結構大変なことになる。


そこまでの


気づかせるテクニックをお持ちのその先生は

テストをしない。





ライブが全てだから。

そこで得たものは


初見の文章や

新たに出会った問題に

対する子供の意識のなかで

あらわれるものだから。



そこまでの授業を見たことがあるから

わたしは国語の授業の可能性を信じたいと思う。



それは日常では

決して得られないものだから。


その意味では

よい国語の授業も

駄目な国語の授業も

非日常であると言う意味では

共通するのだろう。

ただ、中身はあまりにも違う。
posted by 華岡依音 at 22:02| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月29日

にゅうじょうする。

2件前から連続した記事になっています。


教科教育の中で

情報共有がうまくいっていない

学校に通う子供たちは

学校に対する信頼を

かなり早い時期で失っていきます。


そしてその気持ちをもっと早く失っていくのが

親御さんです。

そして

学校で得られない(と予測される)ものを

埋めるための対策を講じます。


そこで学校外に非常に限定された母集団が作られる

ということが起こります。

その限定された母集団は

その限定ゆえに

成績を伸ばすことが他の場よりは容易です。


ですがその母集団であっても

学習習慣が組みあがることなく

結果が空しくなるお子さんもいます。


母集団の力に頼ってしまう場合

そういうことが起こります。


そして

学校に対する信頼がなくなったように

学校以外への場への信頼をなくした場合、

その場から抜けるお子さんが出ます。


しかし補充はされます。

需要が常に生じるからです。





もちろん

母集団の力に頼らず

途中からその場に参加するお子さんを

引き上げていくノウハウを持っている

方のほうが多いと思います。

世の中には

常に全てのことを理解できるお子さんよりも

つまづきの経験を持つお子さんの方が多いと思いますし、

そうしたお子さんのケアをすることの

需要も存在するのですから。





でもお子さんの

母集団の力に頼ることに慣れている場というものも

存在します。


わたしの、目の前に。


限定することを避けていますが、

わたしの教え子の直面する現実についての話です。




信じることをあきらめ続けるのは

いざ

信じられる場に出会ったときに

もったいないことになります。



そうした場であるかどうかを

見抜くために、

手に入りやすい情報だけが

情報ではないということを

ふまえて、

その場に足を運んでいただきたいと、

そして全ての感覚器官と

脳を

使っていただきたいと、

思うのです。
posted by 華岡依音 at 12:17| Comment(0) | TrackBack(2) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月28日

らいんなっぷ。

中学校から高校にかけての6年間を

一貫して指導に当たる学校が、

指導内容が一貫しているかどうかは

気をつけたほうがよいと思う。

一貫しているほうがお子さんにあっている場合

一貫していないほうがお子さんにあっている場合

どちらでもかまわない場合は

よいのだけれど、

教科によって

縦断しておいたほうがいいものの

情報共有がなされていない学校が

現実に存在するからだ。

そして情報共有されていないところは

よい先生が

出口に近いところに

配置されて

入り口近く

特に中2で

手薄になることが多い。

そして知識の貯金もなくなって

慌てることになる。


 けれど

 一貫したものが万が一あわないと気づいたときに

 ずっと逃げられないよりは

 多少リスキーでも

 学年によって全く指導体制が変わったほうがいいのだろうか?




中2の先生に評判のよい先生が多ければ

その学校はまずは安心できると思う。
posted by 華岡依音 at 19:46| Comment(2) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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