2006年09月27日

選ぶ側も、選ばれている。

これは、受験ラストスパートの時期の生徒募集についての話ではなく、

もう少し先の、合格後、

もしくは切羽詰まっていない学年の生徒募集についてのお話。


生徒募集をかけるとき、

ある目標を目指す生徒

ある課程にある生徒

を募集することがある。


それは、集める段階(まで)は楽だと思う。

でも集まった瞬間に、

その「集める際の予想図」との差を認めざるをえないはずだ。

それは集める段階で、

集める側に何かしらの理想をこめた予想図が描かれているから

のように思う。

もちろん

予想図を描いているのは

集める側だけではない。

その募集に応じた側の中には

もっとリアルな予想図が描かれている。

その予想図は、

設計図でないところがポイントである。

予想図には、設計図はついていない。

あくまでも、完成図だけだ。

未来への設計図が構築されているのならば、

その未来の設計図は

「秘ししずめられた状態」でそこに存在していることに、

その教育機関を知る人であれば必ず気づくものであるし、

その教育機関のウリの要になるものであるから、

現実にその教育機関の門を叩いた人間でなければ分からないようにしか

示されない。

さらに、その教育機関のウリを知ってしまった人は

本当に信頼のおける人にしかその情報を

与えないように思う。




だから「切羽詰った状況でない」子供たちに向かって

やたら限定した広告を打つようなことがあれば、

その教育機関は

そのウリが実はたいしたものでない

(ウリ以上のものすごいものを持っているから、

 限定して生徒募集をすることはただのきっかけ

 もしくは

 ウリとしているものはハッタリ)

ものだ。

 
それが証拠に、

限定募集をかけているところの

殆どが

前者のパターンであろう。


そして、

限定募集をかけているところであっても

限定募集をかけていないところであっても

きちんとその教育機関と縁を作ろうとした段階で、

すでに、教育機関は選ばれている。

その吟味の作業をはしょるほど、

教育機関を選ぶ人間の目は、甘くはないと思う。



早く、もっと、深く、その目が、全ての教育機関と、

すべてのお子さんの中に向かっていけばよいと、思っている。
posted by 華岡依音 at 16:26| Comment(0) | TrackBack(2) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月22日

小さな階段。

遠い約束をしたあとは、

小さな階段をつくっていきたい。

小さな階段は、

足を乗せるところが大きくて、

段差の小さいものがいい。

一段一段を

かかとがはみ出すことなく

つま先がぶつかることなく、

しっかりと踏みしめることが出来て。

いま自分がどこに立っているのか見渡せる。

そんな

階段をつくっていきたい。

手すりにもたれて

向こうに広がる風景を見ることも出来たり

しばらくのぼったら

振り返って

今まで上った段を見返したり

その段に欠けているところがあったら

ちょっと下りて

直しておいたり

学ぶ人のために一つ一つ作られた階段だから

その階段はけんけんぱあをしたりする

ときには自分の学びを共有したいひととともに

そんなときのためにあるのだけれど

そのときのために

補修したところはきちんと干しておいて。

その階段をひとしきりのぼったあとで

約束がまもられる。


そして、

着実に

のぼったり降りたりを繰り返して、

インプットとアウトプットを繰り返して。

いつか自分の学びの道を誰かに示すことがあったときに

その道を示された誰かが

た、たた、たたた、と

いきおいよくのぼったりおりたりしても

せっかくのステキな階段に

つまづくことがないように

なんどもなんども

たしかめながらのぼりつめよう。

あしもとに段差を作らぬように。

たん、たん、たん、

と。
posted by 華岡依音 at 23:17| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

遠い約束。

目の前の生を信じられなくなるほどの

体験というものはなかなかないものだが、

実は結構あるものだ。

地震、災害、火事、事故、犯罪。

人生の中の悪意を感じた時に、

心を折らないでいるのは難しい。

たった一分の違いが、

あのときの判断が、

そう思って、

心の方向が、

ふ、とおれそうなとき。


その人の耳に入っても入っていなくても、

遠い約束をしてほしい。

目の前の感情に押しつぶされそうになったとき、

その遠い約束は

その約束をしたひととの間の

絆とか

愛とか

そうした心の動きを

ふとしたときに

与えてくれるから。




その遠い約束の期間は

別にそんなに遠いものでなくていい。


ほんの少し、

目の前よりも先の未来を信じることが出来るようなもの。



そしてそれは

がんばれば与えられるものではなく

ただ、

約束として存在しているもの。

そうしたものがふさわしいと思う。




今を生きる人は

大きな何かにさいなまれなくても、

小さい何かにさいなまれ、さいなまれ、

苦しみを感じ続けていて、

本来それは苦しみではない、

そうしたものにまで

苦しみを感じ、

苦しいんだ

分かってくれよ



救済を求める。

でもそれは

捉え方の問題だから

自分で乗り越えること

それを心がけて。

そしてその

何かを

乗り越えられた時期に



何かしらの

幸福な時間が

設定されているといい。


それは

がんばったから与えられるものではなく


だから受験に

合格できるとかそういうことではなく


何かをきちんと終わらせたときに

与えられるもの。


きちんと終わらせることが出来れば

結果はおのずとついてくる。


だから

がんばれば与えられる約束ではなく


ただ

約束をする。

その約束にこめられた

思いを受け取る。


そんな

遠い約束をしよう。





そしてそんな約束をくれるあなたへ。

あすへの希望をくれてありがとう。

いつもいつもたすけられています。

しっかりとつなぎとめられています。

てをつないでいるように、

いのちをつないでいきたいとおもいます。

まじめにいきぬいていきたいとおもいます。

すべてのことばに感謝します。
posted by 華岡依音 at 16:04| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月21日

じぶんのきげんは、じぶんできめる。

結局のところ、

ありとあらゆる予測を立てて、

その予測通りにならないときの対策も考えて、

出来るように計画を立ててその計画を進めていって、

その目的を果たしていくことが

自分の機嫌をよくしていくことだ。

期限はきつく決めないほうがいいけれど、

その期限を守ることの意味、

守らないことの意味、

その期限を守らないことによる実害を

意識しながら

自分のきげんを

コントロールする。

それをできる大人になるために

期限を切られたなかで

機嫌をよくしていく訓練。

それを

勉強を教わっていく時期に

繰り返していくのではなかろうか。


その時期をうまく抜けること。

その実感をつかむこと。


えんぴつをにぎり。

けしごむでけし。

くりかえし。


それを見つめる視線を

自分の中にもてるまで。



その時まで。

そのきげんは、いつになるか。

じぶんできめて。
posted by 華岡依音 at 20:14| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月19日

うえからうしろから。

他人の踵にたいして、人は厳しいんです。


上から見てるからね。

地面についているところが見えないんだな。

だからどんなに地に足つけてようが、

かかとが減ってるよなあ

と思ってみるんだよね。

上から目線で

見るんですよ。


だから

靴の踵は

脱いだ状態で後ろからちょっとはなれたところで

確認して

修理に出したほうがいいね。



まだ大丈夫、と思っていても、

やっぱりぎりぎりの状態で

ひやひやしながら歩くのは

危ないし、

すべるし、

自覚しているよりも余裕がない印象をもたれるから、

やっぱりそれは大丈夫じゃない。

見られているよ。


顔は恥ずかしくて見られなくても、

太ももはいやらしくて見られなくても、

足を後ろから見ることを

躊躇する人って

いないんだよね。


出かける機会が多くなれば多くなるほど

気をつけたほうがいいよ。
posted by 華岡依音 at 20:01| Comment(0) | TrackBack(2) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月18日

孵化させる適正期間。

叶えたいもの。

それを持つ人は、

その叶えたいものが

いつ

どこで

だれによって

どんなふうに

かなえられたがよろしいか

意識しているものだ。



一番美味しくかなえられるとき

それをめざして

人知れず準備を進めるが

よろしかろう。





しらしめてもよろしいが

それがより美味しく調味されて

ぱくりとやられてしまうか

調味もされず

放置されるか

まるのみされて

自家中毒か



いずれにせよ






思いを秘密主義にして

特定少数で

共有するほうが

破壊力があろう。



クラスメイトの前で

受験校を絶叫する

といったかたちの

情報共有は

集団催眠としての効果はあろうが





温めてきた夢の卵を

巣の外に出すかも知れぬという

危惧は

リアルに感じられぬ今のうちに

こっそり

言うておいたがよかろう。




孵化していない思い。

熟していない機。

それは外気にさらされず

心の内に

心を共有できるであろう人の

心の内に。
posted by 華岡依音 at 23:44| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

やりあきるまでやりまくる。

はじめは、うまく相手の好奇心をつつくようにして、

だますようにして引き込みます。

そして、はじめにいれていくときは、かみくだいて、

どういうプロセスでそこにいたるのかを、

ていねいにていねいに、なぞってあげることです。

そしてはじめに相手の中からだすときには、鵜飼いよろしく、

入れたとおりにださせることを心がけます。

ゆっくり、いれたとおりに。

確実に、しっかりと。

すこしずついれかたにバリエーションを加えていきます。

少し隠したり、他のものと比べてみたり。

相手の知っているものがあれば、そこに比較対照をくわえながら、

すこしずつみちすじをつけていきます。

相手のわかりかたをわかりながら、

すこしずつ量を増やし、深めていきます。

そして相手の世界を拡げます。

そうこうするうちに、最初抵抗感を示していたものが、

回路が出来上がってくるにつれ、長くもつようになります。

すこしずつ慣れてきて、相手からの要求も増えてきます。

質問もするようになります。

必要なものを、話をそらし過ぎないように注意を払いつつ、

教え込んでいきます。

手を変え品を変え、

手を使い、紙を使い、耳を使い、目を使い、口を使い、

歩きながら、飲み物を飲みながら、笑いながら、

泣かすことのないように、いれたり、だしたりを続けます。


もちろん、本気でなければ、

一度や二度は泣くことになるかもしれないけれど・・・・・


いれることがある臨界点を超えると、


今度はだしてだして、だしてだしてもらいます。

おえっとなるくらい、自分の中にあるものを、

全てさらけ出してもらいます。

あやふやなものの存在を許しません。

そのときは。


そのときが、ただ楽しいだけのものを超えるときなので、

一番苦しいと思います。

だから、終わったあとは、ものすごくたくさん寝てしまいます。

そして、とてもお腹がすくので、ものすごくたくさん食べますね。





そして、しばらく出させ続けていると、

当然自在に出せるようになるので、

きもちよくなってきます。

そして、自分はもういくところまでいったという、


大いなる誤解をするようになります。


だからそのときこそ、全く違った角度から、

相手がいかに知らないのかを

みしりと、「目にもの見せ」て、

さらに違った角度からの

「いれる」「だす」を繰り返します。


すると、







やりあきる、状態になります。







そのころになると、

経験不足であることの

不安など、


口にしなくなっています。








なのに、

終わったあとも、

その余韻を引っ張るようになります。

一人でいるときも、

反芻して、

出すようになります。

たとえ、リビングにいても、

お母さんの前であっても。


そして、

お母さん、きいててね?

お母さん、見てて?

と口走るようになります。




そこまできたら、

本番でも、

大丈夫です。



私の本番直前の、

知識の総復習の光景は、

いつも、

こんな感じです。
posted by 華岡依音 at 19:47| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ぐーるぐーる、ぐーるぐる。

ある程度問題を解きこんだ状態の子供たちが解く問題は、

問題文の中にあるヒントを

徹底的に図示したり

もしくは

図の中に書き込んでいくことが求められている。


べつにそれって、不親切なことではないのだ。


手を動かして、

その図に書き込みをしていく。

図を自分にとって意味のあるものに変えていく作業だから、

それをしていくことで

自分が

どこまでわかっていてどこから分かっていないのかを

図に明示できるのだ。


そして

その図を見ることで

視覚情報を

感覚神経に通し、脳に届けて、

自分がどこまでわかっているのかを

自分の脳にわからせて、

自分の脳で分かったことを

運動神経を通して、

自分の腕を、指を、鉛筆を通して、

視覚に訴えるものに起こしていく。

そのくりかえし。

ぐるぐる、ぐるぐる。




頭の中に

新しい情報を

刺激として入れないで

答えを出そうとするのは

とてもとても

とてもとても

修行なくらいに

大変なことなのだから。。。。

(なぜ座禅が修行たりえるのか考えていただければと思う)



きみは、問題を解いているのかい?

それとも

悟りを開こうとしているのかい?


問題を解くという意味での

悟りは

手を動かすことなしには

開けないのだよ。

なぜなら、その答えが

まだ君の中に完成していないからだ。

ぐーるぐーる、ぐーるぐる。

回してごらん。

その回転が速くなればなるほど、

解くスピードも、正確さも、

上がるよ。



風車のように。

竹蜻蛉のように。


解答用紙→目→感覚神経→脳→運動神経→鉛筆→解答用紙の


情報伝達のサイクルを

作り続けてほしい。
posted by 華岡依音 at 15:23| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月16日

虫ピンで、びしり。

問題を解いているとき、

問題の指示を見落とす瞬間がある。

その見落とした瞬間を、

そばにいる人間が見落とした状態で、

どれだけ間違いの理由を指摘したところで、

後の祭りである。

見落とした瞬間を、

見落とすな。

目をらんらんとして、

その瞬間の思考回路と

その結果、

問題の出題者が

如何にそのミスを誘発させようと

出題しているのかを

その瞬間に語れば、

ミスを二度目にしたときの

あせりの度合いが違う。

あせりの度合いが変われば、

ミスの可能性も減る。

自分のミスのメカニズムを

みしり、と指摘されれば、

ついてきてくれる可能性は、

一気に増す。


集団だから不可能ではないと思う。

一回、気づいてあげればいいのだから。

たった一回、されど一回だ。

集団の中で気づいてもらえるのだから、

その驚きは倍増だろう。

個人プレイで見ているときよりも、

どれだけ効果絶大であろうか。


ミスに落ちる瞬間を、瞬殺するべし。

そして言葉を尽くして、分からせるべし。

そして見抜かれた、と悟らせるべし。
posted by 華岡依音 at 19:27| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月15日

せんしのきゅうそく。

私は地方出身者だ。

私の地元には、何がないといって、

本屋さんとCD屋さんがない。

服屋さんより、ないのである。

図書館サイズの本屋さんが、図書館よりも少ない地域で、

本を注文しても恐ろしく入荷しない。

入荷するまでの日数の単位は、日ではなく、週でもなく、月だ。

だから

大学入学直後に、

本屋さんで

「申し訳ございませんが、ご注文の本が入荷するまでには

 十日かかってしまいます」

ときいた瞬間に

「ええ!?」

と叫んだのは遅いからではなく、

早すぎるからである。

あれは本当に驚いた。

あれから同じくらいの時間を折り返してきても

まだありありと思い出せる。


そして

CD屋さんと

本屋さんと

カフェが併設されている場所は


本当に幸せだ。


やっぱり休息できるときには

ここにきてしまうなあ。
posted by 華岡依音 at 16:36| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

勝負は武器の数で、決まらない。

入試では、どんなにたくさんの武器を持っていても、

その武器の使い方を完全に分かっていて、

自在に繰り出せなければ、

勝つことはおろか、

勝負の土台にのることすら危うい。

武器を一つ一つ確実にしていく。

それが今出来ること。

いかなる武器が世の中に存在し、

いかに自分自身に武器が足りないかを

みっちり確認するのが、

順調な夏休みのあり方だ。

そして今は

その武器たちのうち、

自分に使いこなせる武器を

一つ一つ増やしていくこと。

完璧な形で。


100個の武器を体中につけていたって、

自在に使いこなせなければ、

ただの自縄自縛である。

そんな縄を巻きつけているつもりの気分を味あわせていると

泥縄になるのは目に見えていて。

そして間に合わなかったね、残念だったね、

また来年、というわけには行かない。

時間は確実に流れ続けているのだから。

そのときごとに、終わらせたほうがいいものは

終わらせたほうがいい。

ゆっくりやってもいいときもあるけれど、

ゆっくりやったぶんだけは

しわ寄せが来る覚悟のもとに

時間の経過を感じてほしい。


あせれというわけではない。

あせらずともできることを

着実に

すすめてほしいのだ。

しつこく、しつこく、すすめてほしいのだ。

100の武器をフルスペックで使えないのなら、

10の武器を自在に使えたほうがいい。

そうするなかで

武器が爆発的に増やせる

その能力を持てるときが来る。

きっと来るから。
posted by 華岡依音 at 00:10| Comment(4) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月13日

○というもの。

お母さんのお腹の中で

ちいさな○は

ふわりと自分の場所を見つける。

お父さんとお母さんから

うけついだ

遺伝情報を

一つの形にすべく、

時を待つ。


その○は

時が満ちると

お母さんの体から

広い世界へ

生まれる。

そして

その○は

まるいお母さんのおっぱいであったり

まるい哺乳瓶であったり

まるい器であったり

まるい管であったり

さまざまなまるいものから

いろいろなものをうけとりながら

すこしずつ大きくなっていく。

そしてその○は、

家という○の集合体の中で

家族というさまざまな○と

重なり合って◎になったり

一つの接点で繋がったり

ベン図のように二つの接点で重なり合ったり

さまざまな

泡のような危うい形を作りながら

大きくなっていく。

その間には

○が大きくなりすぎたり

。のように小さくなったりして

苦しいときもある。

○同士の関係の軽さ重さに苦しんで

言い合うことがあるかもしれない。

でもその○は

いつか自分の力で

新たな○を作り出していく。

そのために

いまいる○の集合体の中で

○の数が増えても減っても

○でいることを

じっくりじっくりと学んでいき、

学ばなければならない。

それを教えあう、習い合う場として

教育の場が存在するのだと思う。



○が三日月になったり、ドーナツになることもあるかもしれない。

そのときには、また本来の○になることを恐れなければいい。

○が○でいることをおそれず、淡々と、微笑を忘れず、

ころりころり、と転がっていくことで、

自分の生きるために必要な○に出会えたとすれば、

ふ、とベン図を作っていたい。
posted by 華岡依音 at 19:21| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

これ、本当は好きじゃないんだよね。

味覚を共有していくことは、

とてもしあわせなことだ。

外食でもなく、食べるメンバーの誰かが作ったものでもなく、

ただ素材があるところで、

味覚を共有する作業。

だから鉄板モノとかアミモノとかを

ともに食すことは、

人と人の距離を縮めるし、

お互いの根幹となる

感覚に対する気づきを

共有することとなる。

同じことを喜び合い、

異なるところを微笑みあう。

それは複数の人がともに生きていくときに

あるとたのしい、過程であろう。



その過程を通り抜けて作られていく家庭。



その家庭の中で

味覚が共有されていないことを感じるときがある。



どんなものを食べているかの情報の欠如。

どんなものを好むのかの情報の欠如。



そのいずれかに属している子供の、

家庭への求心力は弱い。




子供の味覚が完成するまでは、

家庭の中で供されるものへの信頼と、

供することの責任を、

感じていてもらいたいと思う。
posted by 華岡依音 at 16:08| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月10日

ずらしずらされ。

嫌いなものに対して

人は、

なぜ嫌いなのかを言語化することが怖いから、

なぜ嫌いなのかを突き詰めずに放置プレイする。

そして代替品にて時間を過ごす。


そして嫌いなキモチを払拭しない。

嫌いなキモチは、だんだん時間というパウダーがかかって、

固定されるような気がする。



けれど

嫌いな理由が言語化されていない場合は、

けっこう踏み込むと

その核はわりとぼやんとしてるもので、

そこを丁寧にときほぐす手と目があれば

嫌いというキモチごと

取り除くことが出来ると思う。



そしてそれを取り除く人間に必要なのは、

その怖さを感じさせないワザ。

キモチをうまくずらす、そらすテク。

そうコントロールされていると気づかせないインパクト。







そのためにも感覚的なずらしって

大事だなと思う。








もちろん初めての知識を入れる時期は

意識のぶれはいらないから

かなり


らしい格好をするけれど。


初めてのまなびでつまづいた

子供と学びなおすときは

けっこうずらす。

分かりやすく言うと、メガネ。





だから私は

らしくない見た目の先生を

好むのかもしれない。
posted by 華岡依音 at 13:03| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

そのーき、なんのき。

やる気がない子が、永遠にやる気がないわけではない。

でもやる気を出したときに、もう遅かった、という状態が

恒常的に続くと、やる気を出すことをやめてしまうだろう。

だって、意味なかったじゃん、という経験を積み重ねて、

負けが込んでいて平気な心理状態でなんていられない。

負けが込むような、弱めの心持であれば、なおさらだ。


だからといって、やる気を出せ、と精神論をぶちかましたり、

何で君にはやる気がないんだろうねえ、とつぶやいてみたりしても




あたりまえじゃん

だって今そんなにやる必要ないんじゃん?

と思っているから


やんない。





でもそういうときに

キモチを追い込むことなく

淡々と

きつめのことを

そばにいて

させ続ける。


一人でいるときには追い込まない。

さんざっぱら

キモチを追い込まれ続けて疲れているから

やる気のないときに

むりむり、宿題を課すことなど出来ない。




そして

淡々とやったことが

いざやる気の必要なときに

繋がってきていることを体感させる。

それが出来れば

どんなにもりもり負荷をかけても

自分の努力に対する信頼を

持っているので

がんばれるんだよね。





やる気のないときは、

精神力じゃなく、行動。

試験で追い込むことが出来るのは

はじめの成功のあと。

それまでは

こちらがどっさり、

ぐるぐると

歩かせていけばよい。


こんなときは、

やる気という樹の周りを

ぐるぐるまわっている、のだろうから。
posted by 華岡依音 at 09:45| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月08日

じかい。

学校でも塾でも習い終わった後の、

しーばらーく時間がたった後のものを

反復することに意味を感じないというのは

いったいどういうことなんだ?



反復するチャンスを

期限を切って与えているのだよ。

期限を切られないで

反復することができれば

もっと早い段階で

反復も出来ているだろうし、

かなりたってから

復習・・・・

忘れた状態だから

限りなくもう一度スタートに戻る

という感じであろうが。





そんなわけで

そういう復習の必要な人には、

にっこり笑って、

ガッツリ計画。

細かいよ?


覚悟しておいてね????



未成熟であれば

計画をたてられるひとに

たくさん立ててもらうほうが楽だから。




でもそのなかで

徐々に盗んでいただきます。




盗む気がない奴の計画なんて

立てないよ。
posted by 華岡依音 at 16:56| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月07日

たとえのはなし。

どんなに大局観が必要であったって、

最前線を走っている子供にはその大局観なんて見えやしない。

周りの大人が仕掛けている、

子供を巻き込んださまざまな動きを、

子供は皮膚で感じながら

走るサラブレッドの子馬のようなものだ。



サラブレッドの馬が好きで、

そうなると競馬を見るのも好きになる。

賭けるのは。。。よくわからない。

冗談で賭けて当たった事はあるけれど。



サラブレッドの勝負って、入試に似てるなと思うのだ。

中学入試くらいの。

大学になると、もう古馬も古馬。

わたしのイメージだと、

新馬戦のイメージ。


その子供たちを育てる全ての人の思いをのせて、

その子供たちの周りの大人たちの思惑も乗せて。


馬という実力を

騎手という精神力でコントロールして

走る




という考え方もいいのかな?







思ったりしている。
posted by 華岡依音 at 15:18| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月05日

なぞ、いらんかえ。(追記あり)

「なぞなぞ」を言い合う

大人と子供の組み合わせを見なくなった、ような気がする。

この間、久々にそういうコンビを見て、ほほえましく見ていたら、

家庭教師の先生と、お受験を控えた教え子だった。

ああ、謎さえも、知識かぁ。


そう思って、軽く脱力しながら、

二人を見守っていた。


謎々の答えというものは、

問題を出すほうも、

答えを出すほうも、

その答えになるものは基本的に頭の中にあって、

その切り出し方を探るものだ、と

思っている。

それは、その切り出し方を発見できたときに

喜びがあるもので、

謎々の答えが綺麗に落ちているのを見て

おー!!!

と感動はしても、

そこで何かが止まりそうな・・・


私が、そうした切り口の作り方が下手だったから、

なぞなぞは嫌いだった。

謎々って、

どうなの?と

ひねくれて思っていた。


閑話休題

謎々の本は

今年に入って

月に8冊くらいしか出てないのです。

しかもシリーズは

小1から小6まで各学年出ているのです。

それはいかに

バリエーションが減ったかということで、

ついでにいうと

「まるちゃんのなぞなぞ」が出た・・・

ということは

謎々はやはり

知識としての商品になっている

ということなのだ・・・・




脱力・・・・・







さて


謎々が聞かれなくなったのは

なぜだろうと思っていたら、




子供のなぜなぜ攻撃に

大人が乗らないからだよ

と、

あっさり。




なぜなぜ攻撃は、

謎々の素地を作っているのだ。

確かに。

なぜなぜ攻撃は

なぜ?の答えだけを求めるのではない。

その答えに至る過程を見るものだからだ。


「どうしてずっとふみきりしまってるの?」


「どうしてでんしゃははやいの?」


「どうしてどうしてっていっちゃだめなの?」





傷つきながら続く

なぜなぜ攻撃を

「いいから」「知らないわよ」「うるさいわね」の鉄壁のシールドで

隔てられた子供の目には

す、と幕が下りる。




その子は謎々どころではないだろう。

人生の理不尽さは、

そこで感じなくても

よかったよね。



人生の謎は

自分の中にしか

答えの鍵は

ないんだものね。

そして

それを

引き出す訓練こそが





大事なのだと

思うんだ。
posted by 華岡依音 at 20:12| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月25日

序章、あるいは、最終章。

私は、誰と最期を迎えたいのだろう。

自分が家族を持つかもしれないと考えたときに、切実に思ったことだ。

もちろん、誰かと同時に命を終えるというのは、現実的ではないから、

誰に看取られるか、ということになると思う。


私は、何人かのひとを見送ってきた。

そしてこれからも見送っていくだろう。

見送っていく人々は、私の生に深くかかわった人であるから。


そして、思うのだ。

生に深くかかわったことが、

死に深くかかわろうというきっかけになるのではないかと。


そして、思うのだ。

生きることに深くかかわらない関係性を。






生きることは、食べること。

住むこと。着ること。話すこと。愛し合うこと。



そうした生々しいものなのだ。

そこが根幹にあり、五感で感じあうこと、

その延長線上にある学び、

その学びは海馬から見捨てられることはない。


感じあう相手。

それは風であり、地面であり、草であり、けものであり、

けものとしての人間であり、

屠ったけものである食べものであり、

獣や植物の形を変えたものである衣服であり、

植物や金属などによってできあがった住居であり、

そうしたものの中で生きる中で発されることばであり、

ハグであり、性であろう。


そうした生々しさによって心を揺さぶられた人間が、

その経験を増幅するものとしての活字や映像や音響に出会ったら、

それは何倍もその人間のこころを大きくしてくれると思う。

それは生を、大きく強くするものだから。


そうして互いの生を響かせあった人間は、

自分という楽器の演奏者である自分の家族の死に、

真摯に立ち向かう。

それ以外の選択肢を持ちようがないだろう。


そして、そうした日常の中に学びの機会を持つ家族を持ち、

生き抜いて、看取られたいと、思う。





強く、思う。
posted by 華岡依音 at 19:13| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大切なもの。

大切なものが、

受験生だろうが何だろうが揺るがないというのは、

とてもいいことだ。

それが、

大切にする価値のあるものであれば



であるが。

大切なものは

家族の中で

作り上げられるものだから

本当に

家族の数だけ

基準があるものと思う。

でもね。

家族にも精神年齢ってあると思うんだ。

全員の精神年齢が一緒の家族って、

ありえないと思うでしょ?

でも

あるよ。



精神年齢は

上がっていっていいんだよ。

生活年齢が上がるんだから。

老けたっていい。

価値観の溝とか壁とか、

あることを恐れる必要なんてない。




大切にするべきものは

いつも命のそばにある。

そして五感で感じるものだ。


その延長線上に

学びはあるよ。





命のそばにないものが

大事になればなるほど

命の軸がぶれてくる。



そして命が、

大切でなくなるのは、

何よりいやだから。





生きることを軽視しながらの

学びだけは

自分のそばからないようにしたい。
posted by 華岡依音 at 16:28| Comment(0) | TrackBack(1) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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