2007年08月17日

備忘録です。2008年入試理科の時事問題の種になるかも?

2007年8月16日、日本の最高気温が更新されました。
それまでの記録は1933年7月25日15時頃に山形市で記録された40.8℃ですが、今回は一度に二箇所でです。
岐阜県の多治見市と、埼玉県の熊谷市です
ちなみに温度は40.9℃でした。両方午後二時台の記録ですから、太陽が地面をあたためて、あたためられた地面が空気をあたためたということになりますね。
なぜここまで温度が上がったかについての説明は、引用しておきました。


↓MSNニュース(2007年8月17日付)より引用↓

 ◇偏西風の蛇行と「ラニーニャ」現象が影響

 日本の観測記録を塗り替える猛暑の原因は、1週間ほど前から関東地方の真上に居座る太平洋高気圧にある。この高気圧は非常に強い勢力で、例年より北西に移動し、日本列島付近に位置している。

 強い勢力をもたらした原因とみられるのが、「ラニーニャ現象」。赤道付近の海面水温が平均より低くなる現象だが、海流の影響でその西側に温かい海水を送り込む。気象庁は今年5月、南米ペルー沖で発生を確認、8月になって現象が強まり、フィリピン側に暖流を送っている。そのため、上昇気流が起きて対流活動が活発になり、関東上空の太平洋高気圧の勢力を強めている。

 一方、今夏は太平洋高気圧の中心が、いつもの日本の南東海上ではなく、関東にまで北上している。その理由の一つは、偏西風の蛇行だ。

 例年偏西風は、日本の西から東に流れているが、今年は朝鮮半島付近で流れを変え、北に向かって蛇行している。その影響で南側から暖かい空気が入り込み、高気圧を北に動かしたとみられる。

 連日、炎天下が続き、夏特有の夕立が少ないのも今年の特徴。高気圧の中心近くの天気が安定しているためだが、雨で大気の温度が下がらず、地表も冷えないため熱帯夜が多くなっている。これが、日中の気温を押し上げている。

 この暑さは、いつまで続くのか。上昇気流に伴う対流や偏西風は弱まる傾向にあり、今週末から極端な暑さは和らぐと予想されている。
posted by 華岡依音 at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 携帯問題集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月18日

宿題だって、買うんだよ。

どこかに通って、もしくは誰かがやってきて、勉強する時間は、その多寡はおいておくとして、お金を出して買っている。そしてその時間に付随するものとして、学習内容も買っている、ということもできる。勉強するその時間と空間を共有するためのお金はすでに支払われている、もしくは支払われることが約束されているから、その空間と時間はキミに与えられているんだ。その場をどう使いたいかは、キミがその空間と時間を共有する人と話し合って、納得の行く形にしていけばいいと思う。だから自分の学びたくないやり方を押し付けられる前に、納得の行く学びができるところを選ぶことができるのなら選べばいい。もう選んだ、選ばれた後なのなら、キミが相手と交渉できるだけの力を身につけるまでは、力をつけることに集中したほうがいい。力がない状況で、自分の主張を通すのは難しいからだ、何かが始まってしまった後では。
たくさんの人と時間と空間を共有して、そのなかで宿題を解ききれるヒトと、解ききれないヒトがいて、キミが後者に回ってしまったとしたら、宿題が多いからといって、それをむやみやたらにはしょってしまっていいのだろうか。その環境に身をおくために、その宿題を買っているのではないのだろうか。その日に誰かから出される宿題というものは、いたみやすい食材や、成長期の靴のようなもので、それを後生大事にとっておくことで新たなゴミを作り出すことにはならないだろうか?
もしキミが宿題を解ききれないのであれば、キミに宿題を出しているヒトと直接話をしよう。話ができないのなら、話ができるところまで力をつけるしかないだろう。もしキミの立場でどうしても話ができないのであれば、キミの周りの宿題を出しているヒトと同年輩のヒトと一緒に話をしてもらったほうがいいだろう。おそらくそのヒトが、キミのために財布の中からお金を出しているヒトだろうから。宿題を出しているヒトと、その宿題を買っているヒトとが話をして、納得のいく話ができたのであればそれに従えばいいし、納得のいかない結果が残ったのなら、こちらの力をつけるか、付き合いを断つか、だと思う。

いつかキミは宿題を誰からも強制されない側に回る。仕事でのノルマは課されるかもしれないけれど、それを宿題にするかどうかはキミ次第だ。
お金をもらって動くようになったときに、二人以上のヒトの取り決めたものをどう扱うようになるかの、ひとつの例だと思うんだ。
宿題のない環境は、もちろんあるよ。宿題をほしがらないヒトに売らない環境であったり、宿題を必要としない環境を作り上げたりしているよ。そうした環境を、売っているのだから。

宿題がある環境だって、ない環境だって、結局は、買うんだよ。買っているうちに買ったものをどう扱うのかを覚えよう。そして買うということを考えようよ。
posted by 華岡依音 at 16:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月28日

イメージ力と、表現力と。

ブレーンが、お勉強の目指すもののひとつの形を示しているので、思うところを記してみたいと思います。また、Mr.Hot Cake先生の記事も拝読し、記しています。

中学受験で言うと、
「解法」といった形で「思考パターン」が伝授される。
それらを反復し、「問題の文法」という形で、問題を見た瞬間にその表現の中にかくれんぼしている「思考パターンの糸口」を見つけ、「パターン」を想起し、相手の求めている表現方法で答えを導いていく。その速度が速ければ早ければ早いほど、その導き方が正確であれば正確であるほど、複雑なものを解析できるほど、偏差値の高い学校へのチャレンジ権が得やすくなる。そして、そうした能力の高いお子さんであれば、その「思考パターン」の共通点を見つけ出して、見たことのない問題であってもねじ伏せるという技を身につける。

能力をお持ちでしっかりしたトレーナーがそばについていれば、そこまでの能力はつく。

しかし、そうした受験生生活を終えて中学に入学すると、
「解法」が「パターン」として示される機会は減る。
いわゆる東大塾と言われるような塾であっても、東大を出口の一つとして持つような学校であっても、授業風景はとても普通だ。ただ、イメージを持つための材料は早い段階で、軽く、明るく、大量に与えられる。その材料をうまく使いこなさなければいきなり成績が沈み込み、使いこなした級友たちが、数年後に「思考パターン」の糸口を示されてすいすいと受験の海を泳いでいくのを「あら?」という思いで見ることになる。そして、自分がもう一度同じ土俵に上ろうとしたとき、自分が裸であることを知る。

また、大学に入学すると、自分で何とかして知らなければならないイメージを持つための材料の量はさらに増える。そして、その材料は自分で探しに行かなければ増やすことができない。しかし、いざとなれば何とかなる。「パターン」を探しに行くことはできるから。そしてその探し方を誰かに教わりに行くこともできる。なぜならお金を払って学んでいる立場だから。コピーアンドペーストである程度の土台を作ることがまだ許されているから。もちろんすべてをコピーするようだと、糾弾される側に回るが。

そしてお金をもらう側になったときに、自分の持てるイメージの材料を自分のなかにある材料を使って表現し、さまざまな現状の中から「パターン」を見出して処理したり、いかなる「パターン」にも当てはまらないように思える状況の中でも、自分にできる一番よいと思われる方法で、できるだけ正確にねじ伏せていくことが、「思考」だと思うのだ(どうしてもねじ伏せられない場合は、自分が傷つかず、周りも傷つけないように逃げる、ということも含めて)。そしてその思考を、他の人へ伝えるために、必要なイメージの材料となる言語も、できるだけ他の人と共有しやすいもので、伝える手順も、伝わりやすさを目指すものであれば、どのような相手であっても力を与え合い、作用しあい、どのような状況であっても潜り抜けることができるように思うのだ。


つまり、「思考パターン」を与えられ、理解するためにはその前の段階の「語彙」が必要であり、その「語彙」をインプットし、アウトプットする訓練を積まなければたとえ「思考パターン」を与えられても理解ができない。ただ、その「思考パターン」ごと指導される時期は限られており、その時期以外は非常に地道な「王道」も「覇道」も「邪道」もない、こつこつとした学びの時期が続く。だからたとえ一時期「思考パターン」を与えられるだけのレベルまで学力がついたとしても、その「パターン」がすべてなのだと思った瞬間に「学ぶ力」の衰退が始まる。そして「思考」を自分の力だけで行うときに思考のために使える語彙の量が多く、その語彙を他者と共有し合えるだけのイメージ力と表現力があれば、現実を切り抜けられるだろうし、そのための頭の使い方を人は若いときに「学びの場」で身につけていくのだと思う。


そのために自分の中にあるイメージの材料である「語彙」を若い時期にこそ増やすべきであろうし、その語彙を運用できるかどうかをアウトプットし、確かめ続けることが「学びの場」でイメージ力と表現力をつけていくことであるように思う。その作業が、若い時期のお勉強のひとつの形なのではないかと思う。「思考パターン」はあくまでも仕上げの時期のうまみ調味料のようなもので、そこだけに頼るのは体にも、頭にも悪い。あくまでもイメージの材料を言葉を使って頭に入れ、言葉を使って表現すること。素材を多くし、その素材をどう結びつけるのかを知っていれば、自分の力でその素材を増やし料理する段階で、無限に「学び」を広げていかれると思うし、そのお手伝いをするのが自分の仕事だと考えている。



posted by 華岡依音 at 23:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月25日

私の履歴書 保守政権の担い手

歴史は、もう習い終わっているけれど、昭和以降の政治の流れがあまりにも駆け足過ぎてよくわかっていない状態のお子さんが周りにいらっしゃる方にこの本をお勧めします。

その場に身をおいていた人にしか書けない、生々しい現代史です。
その方その方の書きっぷりが楽しめるのですが、なにせ分厚いですから、レジに行く前に挫折してしまわれるかもしれません。
よろしければ、福田赳夫の手による113ページからの文章をごらんいただいた上でご検討ください。
残したメモのノートの厚みがあれだけになる方の記録です。数多くの政治家の息遣いと、彼らに対峙した彼自身の静かなペンの音がページの向こうから聞こえてくるようです。

歴史の復習をするときに、このときこの人はこんなことを言ったんだよ、こんな思いだったんだよ、という言葉を付け加えると、総理大臣の前後関係がつながるだけでなく、なぜこのときこういう出来事が起こるのか、を理解できた上で覚えられると思います。




posted by 華岡依音 at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 読んで、考えた。 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月22日

ワーキングプア 日本を蝕む病

金は天下の回り物、です。

天下は日に日に広がって、
グローバリゼーションの名の下に、
循環しているように見えます。

水が循環するように。


今、
わたしが価値があると思うものに、
わたしの労働によって得たお金を払う。
そのお金はどこへ行くのか?
そのお金はわたしの手元に循環して戻ってくるのか?

そのことを疑ってかからなければならない時代になりました。

わたしの手元を離れたお金は、
誰の手元に流れていくのか。
誰の手元にとどまるのか。
その渡された相手は、うまく循環するように
お金を使おうとしているのか?


今のままでは

わたしの手元を旅立ったお金のほとんどは
循環して手元に戻ることはないだろう。


そう、予感させる本です。



この状況を別の方向へ持っていくには、
豊かで幸せな、手にお金を握っている子どもに
この状況を知らせること。
これがはじめの一歩かな、と思います。

中3の教え子たちに読んでもらおうと思いました。
posted by 華岡依音 at 23:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 読んで、考えた。 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月20日

能力についてくるのは、お金だけじゃない。

大抵のお勉強にはお金が必要です。

お金を出してお勉強をして、何になるの?
お金を出さないでお勉強ができれば、いいんじゃないの?


お勉強をした結果、本当に「学ぶ力」を身につけられれば
お勉強のために必要なお金はついてきます。
世の中には貸与の奨学金だけでなく給付の奨学金がたくさんあります。
能力のある人間には、お金が集まるのです。
お金をもらった上で、お勉強ができるのです。


(塾の中でもともとの能力によって受講料が減免されたり全免されたりすることは、チラシでもよく拝見します。)

だからそうしたものを活用すれば、「勉強をすること=お金を稼ぐこと」になると、教え子と話します。


そしてその経験は、学ぶ時期だけの得ではとどまらないと思います。

学んだ後、お金を稼ぐようになったとき
自分の使いたいものにいくらまでお金や時間を使えるか、という形で現れるように思います。
どんなにお金が目の前で動いていても
それが自分の使いたいものではないもののためだと
むなしさがついて回ります。
使いたいもののためだけにお金を使うことは
できませんが、
自分の使いたいもののためにお金や時間を使えないと、
金銭感覚がおかしくなります。


自分の能力によってお金を手に入れることができることを覚えると、
お金と時間の回し方がうまくなるように思うのです。

使う、でもそれ以上のものを手に入れる。




そしてその繰り返しによって、
「労働と等価となるものとしての時間」ではない、
違う質のお金と時間の使い方も身につけられるようになると思います。


そしてそれが「余裕」につながるのかな、と思うのです。
posted by 華岡依音 at 16:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月19日

経営陣は、記憶力。

講師の定着率とともに、
組織の存在感を物語るのは、
上の人間の記憶力だと思います。

過去に一度問い合わせをして、
そのときにはお世話にはならなかった方が、
時間を置いて再度問い合わせをしたとき、
「お久しぶりです」という対応があれば
その後の展開が異なると思うのです。

もし最前線の人間だけがその親御さんのことを覚えている場合であれば
立場が変わることでその情報に気づかない場合がありますが

その組織のトップが一度でもかかわりを持った親御さんのことを
覚えていれば、そこからの展開が速いのです。

お名前で、わかる。
声のトーンを、覚えている。


そしてお子さんの今の情報を、すっと言い当てます。
問い合わせをなさったお子さんを含めたお子さんの状況を、
言い当てます。




わたしがお目にかかった力のある方は
みなそうした記憶力をお持ちです。


posted by 華岡依音 at 20:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

耳も目も二つあるけれど。

何かを成し遂げることのできる人の周りには、
常に何かをし続けている人がいます。

何かをし続けている姿を見せ続けておいて、
何もしないでいることを強制するのはむしろ難しいといえるでしょう。

それが何であるかで
影響をどのように受けるかが決まりますが、
その続けるものが何であれ、
周りにいる人に影響を与えることは
仕方のないことでしょう。


そしてその続けるものが
法に触れるものでなければ
影響を与えないよりは与えたほうが
人を育てることがしやすくなると思います。

ことばをかえれば
何かを続ける姿を見ることなく
何かを続けるように強制されても
影響は受けないだろうということです。
それが度重なれば、
ああはなりたくないという気持ちが強くなることでしょう。


AがBに
何かをするように言って
Bが何もしないときのAの失望よりも
AがBに
何かをするように言っておいて
Aが何もしていないときのBの失望のほうが
大きいのです。

「言うだけ言ったら自分は何もしなくてもいいの?」




こちらが何かをしているのなら、
隠さないで見せたほうがいいでしょう。
口で説明するのではなく、目に映るように。


見せすぎるほど見せて、初めて相手は
こちらがしていることを認めるものです。

posted by 華岡依音 at 16:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月16日

知識の暗記は、入れる時間より、出す時間。

知識を頭に入れるのはメンドクサイ。
漢字の形を覚えるのも、単語のスペルを覚えるのも。

書くのか、見るのか、唱えるのか。

それは一番自分にあっているやり方でできているのなら
よいのであって、どのやり方がよいですよということはない。

ただし、自分のお好みの方法で効果が出ないのであれば
戦法は変えるべきであろう。

本当に効果が出る方法は、自分でそれと気づいていないことが多いから。

けれども、暗記をするときに「入れる」ことに夢中になって、
「出す」ことをしないと、痛い目にあう。


そして、だれかと一緒に勉強するときには最終的に出さなければならない方法よりも一段階苦しい方法で「出す」方がよいと思う。



漢字を覚えているかどうかなら、
字形を分割して説明させる。
熟語であればそれぞでれの字を使った別の熟語なり、同訓異字のない訓読みなりをあげて、その熟語を説明させる。

そしてそれがあいまいなものは、説明できるところまで書きながらアウトプットの仕方をマスターする。

鉛筆をあまり動かさないので楽なように見える。
けれど、漢字の中を口頭で説明しようとするのは「ただ入れて、書く」よりも実はこっそりメンドクサイ。
そして、効果は、高い。
posted by 華岡依音 at 15:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月15日

講師の定着率で、わかるもの。

ここに、この先生あり、と言われていても、
その先生の指導を求めてたずねてみたら、
その先生はいなくなっていた。
そしてどこへ行ったのか追いかけることがままならない。

それは、その組織の経費の使い方のひとつの表れではないかと思う。

私的な教育現場だからこそ、
そして講師を看板としている現場だからこそ、
組織が講師に長く指導に当たれる場を提供できているかどうかは
その組織の実態を見る尺度になるのではないか。

ただ長く組織に属している人間を囲っている余裕は、組織が大きかろうが小さかろうがない。

一時期組織に属していてその後独立する、ということもあるだろう。けれどもそうした方であれば、どこへ行ったのかがわからない形で消えてしまうことはないだろうし、もといた組織と完全な敵対関係になることもないと思う。

posted by 華岡依音 at 16:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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